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正直

神道において、正直とは、明るく、爽やかに、あるがまま正確に物事をとらえたものと、 あるがままの自分の本心の一致点、、つまり、人間関係においては、お互いに我慢せずに、作為なく、あるがままの自分をさらけ出し合い、その姿を私意なく、そのまま認識し合い、お互いの長所、短所をわかった上で,お互いに尊重し合いつつ、麗しき心を 持って、思いやり合うことである。

 

道徳

どんな道徳律も自発的良心に基づかない限り無意味である。 それは、強制された道徳は必ず人心を荒廃させ、虚礼となるからである、つまり、五倫五常道徳なども、“よくも、悪くも、生まれつきたる真心”たる客観的にとらえられた、人間の本質に基づいたものでなければならない。さらに、教育等の手段で、一方的,強制的に他人に対して思いやりを持てと言っても無理であり、まず、他人に対して思いやりを持てる社会環境が整わなくてはならない、つまり、他人に対して思いやりを持って、つくすのを逆手に取られ、利用されたり、縦の人間関係においても、人の上に立つ者が、その立場を私に利用せんとするがために下の者に一方的に奉仕の道徳を説くことによって、真の奉仕の意味を歪めてみたりする。このように、社会の矛盾に目つぶり道徳を唱えるでなしに、社会の矛盾をありのままにみとめ、それを改める事こそ道徳的社会への道である、また、社会環境を無視して、信仰に基づき、自分だけが道徳的でありさえすればよい、と説くのも一人よがりである。要するに、まず、道徳的にふるまえる社会環境を整備し、正直者がバカを見る社会は道徳的にはなりえないのであるから、これを改めなければならない。

道徳荒廃の原因

同質社会はエライ、エラクナイの競いが激しいのであるが、個人の権利もこの基準に比例して決められる、又、しばしば、内輪の基準で物事を判断する、これは、論理的思考力の欠如のため、人間理解に欠け、その場の気分で理由もなく物事を決める、又は、現実から遊離した観念的道徳を説く、つまり、暗記すれば、暗記するほど、偏差値が高くなるという教育によって、(言い換えれば、マインドコントロールされれば、されるほど、偏差値が高くなる教育だが、)思考停止に追い込まれ、非論理的権威主義と全体主義か左翼的観念論しか提示されないような環境では、道徳的基準は失われ欲しいものは必ず手に入れるという事が最優先されるのである。

小善

観念論ではなく“あきらかに見えたる理、本居 宣長”に基づき、 自分の身の丈に合った小善を、無理なく、又、自分の本当の気持ちに反しない、形で行う。 これに対して、常に、自分が気が弱いのを、世の中わかっている、現実的だ、協調性がある、自分で自分をコントロールできる、などと言って、ごまかし、いつも、長いものにまかれている、その苦しみを思い知れ、などと言って、長いものにまかれているために、よい事ができない後ろめたさから、小善を行う者に、偉そうにするな、とか、そこまで言うなら全てをなげうってやれ、とか言い妨害する。これは悪である。 また、客観性のある論理的意見をのべる者に対し嫉妬心をいだき、組織の権威をもって、牽制しようとする事もよくない。、

からごころ

人を利用せんがために、ああしろ、こうしろと、やたらに、道徳を強制し、自分を正当化し、それが当たり前と思い、現実の矛盾から目をそらし、権威をあがめる心。

真心

真心とは本居宣長先生の曰く、良くも、悪くも生まれつきたるもの、であり、我慢せずに、自分の本当の気持ちに率直なこと、人から強制された事をあたかも、自分からおこなってるふりをすることではない。つまり、もっと、真心こめてやれ、というのは、強制であり、自分からすすんでやれ、というのも、指示を与えずに命令を実行させる事なので、強制である。

らしさ

らしさとは、がまんせずに、本当の自分をさらけだし、自分らしいこと、ワクにはめる事とはちがう

すなお

すなお、とは 自分の本当の気持ちに率直な事,人の意向にすなおで、従順なことではない。

謙虚

謙虚とは私意、つまり、自分勝手な偏見、独善、主観を抑える事、自己の権利、主張を抑えることではない、

礼儀

礼儀とは人間の場合、お互いに、畏敬の念を持って尊重し合う事。上下関係ではない。

 
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